午前中、実家のお墓参りに行ってきました。
最近はなかなか行けず、お盆とお彼岸位です。
ここは戦後、開拓者としてこの地に入植した方々の墓地となっています。父母も長野県からの開拓者として入植、その当時、おおよそ80戸以上の方が新たに入植し、山々を開墾し、自分の土地にしたわけです。
当時は若い御家族ばかりでした、農家の次男や三男の方が多くいたようです。
凡そ80戸、多く長野県からの方々、少し、山形や宮城の方もいたと聞いています。
ですから私が育つ当時は皆さん、長野弁でした。
「~~ずら」・・みたいな。
それが当然でした。で、小学校は地元の小学校ですから、「・・っぺ?」みたいな。(笑) それがとーーってもおかしかったのを、今も覚えています。
小学校のみんなが「電信柱」のことを「でんきんばしら」と言っていたのを「へんだなぁ‥」と、ご近所の仲間と話したのを覚えていますね。(笑)
この霊園には凡そ80戸の入植した長野県、一部山形、宮城の「一世(いっせい)」の方々が眠っておられます。入植してもう長い年月が経ちましたから 一世の方や二世の方もいるようです・・
我が実家も 父と母、そして弟も眠っています・・
せめて弟が生きていたら、いろいろ変わったかな・・なんて思うことがあります・・
お墓の石碑もかなり増えています。
ここの、ご近所の方々も埋葬されているようです。左手の塔のある辺りは「無縁墓地」だそうで。何人かの方がここにおられるそうです。
静かな場所なので、きっとゆっくりと眠っていることでしょう・・
墓地からは、筑波山がよく見えます。
今日は雲が出ていますが、それでも山頂二つ見えていました。
実家はここから数キロのところですが、筑波山がとてもよく見えます。すそ野を大きく広げた姿なので、この場所よりもきれいな姿です。
父はたったの60歳で難病にかかり亡くなりました。母は、父の分も長生きしましたが、強度の認知症で、誰のことも分からなくなっちゃいました。弟も、59歳で後を追うように逝ってしまいました・・
父は難病でしたから、たった一年を待たずに母を残して天に帰り、母は一年間泣き暮らしました。開拓者として苦労に苦労を重ねた夫婦でしたから、悲しかったのでしょう。弟が亡くなった時はもう認知症発症していましたから、思い出したときは泣き、そのほかは「仕事に行ってるのよ」と。
そんな母を見るにつけ、「あんなに苦労したのに・・」と、よく思いました・・
昔はとーーっても貧乏でした~~
でも、その貧乏も家族肩寄せ合って過ごしたことは、私の「宝物」です。
私は父の歳をもうずっと超しました。
母の年まで元気にいられるでしょうか・・(笑)