徒然草

つれづれにさまざま書いています。

今年のお盆・・

 

今年も我が家のお盆は平穏な日々でした。

コロナ禍で、主人の姉たちも来なかったし、近くの親戚も来ませんでした。

義父も義母も、天に旅立って年が過ぎたせいもあるかもしれません。

 

毎年の盆棚です。

仏様たちをこちらに移し、13日の夕方お迎えに行き、16日まで過ごしてもらいます。ご先祖様のお位牌などあります、私にはどんな方なのかさっぱり分かりません。しかし、さすが長男の主人は結構詳しいようです。

義父も主人にはいろいろと話していたようです、田舎の長男はそういったことからして大変ですね。

 

まあ・・それを自分の長男に伝えるのが主人の役目ですけど・・

話の内容によっては「今はそんなこと・・」と笑われてしまう事もありますね(笑)

 

14日には息子夫婦がやって来てお酒を飲み楽しい時を過ごしました。

長男次男も親を大切に思ってくれていますから、嬉しいですね。

更に嫁っちも話が好きなタイプなのでかわいいです。(笑)

今年はたった一人の孫は アルバイトがあって来ませんでした。もう高校生になりバイトに精を出す年齢になった・・と、感慨無量です。

思えば、2011年 東日本大震災があり、福島県原発爆発 その時、転勤族の長男一家はいわき市にいたので、すぐに嫁っちと孫は茨城へ帰って来ました。息子はずっといわき市の会社にいましたが 津波で軒並み流されたお家もたくさんあって、地獄のようだ・・とつぶやいていました。

仕事も無い・・と、茨城県への転勤を願い出てやっと近くに越して来れました。孫が幼稚園年長さんでした。

 

それからあっという間に10年以上が経ったわけで・・孫も高校生!いやはや・・・自分たちも歳を取ったわけです。(笑)

 

毎年書いていますが、我が家は昔々、この辺りの大庄屋だったらしく。

大きな屋敷とどこまでも続く田畑を持っていたそうで。で、旅の途中の人たちも快く泊まらせたとか。中には病気になって命を亡くした方々もいて手厚く葬ったそう。で、毎年お盆にはご先祖さまがそういった亡くなった旅人も連れてくると。

ごはんもちゃんと差し上げますが、「ご一緒では申し訳ない・・」と、旅人達は遠慮して一番下にいてご飯も下で食べるそう・・

・・という事を嫁に来た当初から、義父義母に教え込まれてきました。

上がご先祖様用で、下が我が家で亡くなってしまった人たちのご飯・・という事ですね。(今、我が家は廃れています(笑))

結構こうした風習は、茨城県では残っているようですね。

 

はい、ちゃんと、我が家の犬の「勇気」「大和」用と、猫の「なあご」用も用意しましたよ。(笑) みんなやさしく賢い子たちでした・・

小麦はなあご兄ちゃんに逢ったかな・・

 

私の実家のお墓参りにも行きました。

ここの墓地は元々は「開拓者のためのお墓」という事で造園しました。

主に長野県、そして新潟県山形県からの戦後すぐの開拓者を受け入れ、当時80軒以上が入植。当時はみな若かったけれど、年数がたって亡くなった時困る・・と、墓地も造ったのです。

いま現在は管理する方もいます。墓地もかなり大きくなっていますので、元の開拓の方々以外も受け入れているのでしょう。始めに入植した方々、「一世」と呼びます、その方々も多く眠る場所なので、長野県飯田市出身の父も母も寂しくは無いでしょう・・

 

筑波山はてっぺんに雲がありました。父母と、弟が眠る墓地です・・ここに行くと幼かった頃を思い出します。

春は染井吉野が満開になり、きれいな墓地でしょう・・