満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所之碑 水戸市小林町1186-89
昭和13年から昭和20年の終戦まで 満州に渡る義勇軍の若者たちを訓練した 訓練所跡地です。
おおよそ8万6千人がここで学び 渡満道路の桜並木を通って 常磐線内原駅から旅だった場所。
いまはその慰霊碑と日輪舎、そして戦争に赴く若者たちを見送った染井吉野の古木があるだけです。
実父は長野県・いまの飯田市出身ですが、次男だったためか満州に行くという志を持ち、長野県からこちら内原にやって来ました。長野県からの同市もたくさんいたようです。父は詳しいことは女の私には言いませんでしたが 酒など飲むとポツリ・・と話したものでした。
内原には「加藤完治」氏という、農民教育・満州開拓移民の指導者についていたようです、かなり信奉していました。
この地で訓練などを受け、たくさんの仲間と満州に渡った父。
荒れ野と原野で、それはそれは大変だったようです。
やがて父は現地で肺炎にかかってしまい、現地では治らず 日本に強制送還されたといいます。その後に終戦。満州ではソ連軍がやって来て大変だったようで・・
亡くなった同志、シベリアに連れて行かれた仲間・・等が大勢いたようで・・父はよく「生き残ってしまった・・」とか「申し訳ない」とか「帰るべきじゃなかった」とか、言っていました。
父が帰ってこなかったならば、いまの私たちは居なかった・・かも・・と考えることがあります。肺炎をおこし本国に送り返されたからこそ、子孫が残っている・・と。
でも父は生涯、その事を言うと、快く思わなかったような気がします。
やはり、内原での教育が、そういう心を持たせたのではないか・・と思いますね。加藤完治氏を崇拝していました・・
いまは慰霊碑と桜が残っていますが、昔はもっと大きな場所だったのでしょう。
染井吉野の「パッと咲き パッと散る」、この精神が、軍人の美学に通じるものがあったからだ、といわれます。確かに戦争中は 青少年にこの桜の精神が植えつけられたような気がします。
「桜花」といわれ、染井吉野の一度にパッと咲く姿や、一度にパア・・っと散っていくことが 戦争に行く・未練無く桜花のように散れ・・と教育されたのではないでしょうか。
「貴様と俺とは、同期の桜・・」と、よく父も口ずさんでいました・・
染井吉野の古木は 当時の桜でしょう。
若者たち、8万6千人を見送った桜です。
きっと・・父もこの桜花を心に、満州へと旅立ったのだと思うと、なぜか切なくなって、涙が落ちました・・
奥に見えていますのが、「日輪舎」・・
※ 日輪舎・・当時の訓練所宿舎。
(ここは中が見られません。内原の郷土史義勇軍資料館に復元されているそうです)
昭和13年(1938年)に植えたのなら、樹齢84年です・・
内原訓練所跡から渡満道路の桜並木が 常磐線内原駅方面に続いています。
※ もう何十年も前の写真ですが。
庭に一本の染井吉野がありました。毎年きれいな花を咲かせていました。私は、最近までこの染井吉野は確か「父が好きで植えたもの」と思っていただけでしたが、長男が「染井吉野は戦争には欠かせない花だったし、内原で訓練を受けたおじいちゃんには、思い入れのある桜だったんじゃないの?」と。
そうかも・・知れません。
ご近所には桜の木は無かったし、当時、個人の家で桜があるなんて、珍しかったような気も受けますね。
父にもっと、そういう事を聞いておけばよかったと、悔やみます、弟も50歳で父の元に行ってしまい、昔の事を思う人は、私以外いなくなりました。
渡満道路の桜並木・・次回です。(#^.^#)
撮影日・・2022年07月23日