徒然草

つれづれにさまざま書いています。

「水戸市内原郷土史義勇軍資料館」・・

 

  内原郷土史義勇軍資料館

           水戸市内原町1497番地16

 

長男との鹿嶋市 那珂市の撮影行の帰り道、内原の義勇軍資料館に立ち寄ってもらいました。資料館は無料で入れました。

郷土の品物のほか、義勇軍満州に渡った青年たちの暮らしぶりや 内原での訓練の様子など、展示物はたくさんあり、写真なども多くありました。

実父が満州義勇軍として渡ったことがあり、一度見てみたいと思っていました。

 

※ なぜ、内原に訓練所が置かれたか??

  上野から鉄道で2時間と利便性があり、当時広大な土地もあったことから。後に内原が手狭になって 河和田分所も造られた。

国内で最初の訓練所。「東伊原郡下中妻村内原」内原訓練所。45.6ha。

 

義勇軍に応募すると、(16~19歳男子)訓練所で2~3か月訓練を受け満州に渡ってから3年訓練を受け、すべての訓練が終わると、「義勇隊開拓団」として編入された。

 

 こちらを参考にさせて頂きました。

www.mapple.net

 

 

  航空写真・・かなり広い敷地面積があったようです。

 

 

  当時の資料など・・

制帽のマークや衣服のボタン バッチなど、が使われています。

桜はもちろん、染井吉野でしょう。ここが重要だったようです。

 実父は 「加藤完治」氏に憧れて義勇軍志願したようです。父は農家の次男でした。

日本が戦争に終わりを告げるころの悲劇・・

これを読むと、胸が詰まります・・・

 

    

義勇軍として満州に渡っていった青年たちの さまざまな品が展示されています。興味深かったですね。

 

 

  資料館の外に復元されている「日輪舎」・・

訓練をしていた若者たちの 宿舎。寝る時、またお休みの日などにここにいたそうです。中も見学できます。

中にはいろいろな道具や、資料など展示されていました。

    

 

 

実父は以前にも書きましたが、満州義勇軍として渡って数年後に「肺炎」になってしまい、上の方から「戦力外」とされ 日本に強制送還されたわけで、そのすぐ後に敗戦となり終戦を迎えましたから、病気が治っても満州に行かないですんだわけです。

でも、父は死ぬまでそれを恥じたように「俺は非国民」と、言っていました。仲間はソ連に連れていかれたり 戦死したりと、悲惨な目に合っていたわけで 父がそう思うのも、いまの私なら分かるような気もします・・

 

でも、生きていたからこそ母と結婚し、長野県から茨城県に開拓団として来ていまがあるわけです。父も母も天に召されましたが 生きていればもっといろいろ話が聞けたかな・・とも、思いますね。

 

戦争は、絶対にいけません!

 

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たくさんの写真をご覧いただき、ありがとうございます。みのりん

撮影日・・2022年09月03日