母の形見の品です。
母が亡くなった時、実家から届いたもの。
ずっと大切にしていた品のようです。
高価な品はありません。それでも最後まで手元に置いておいた品のようです。
母は、大正13年生まれ。父より2歳年上した。
10人兄弟の下から2番目、かわいがられていたようです。
生まれは長野県、いまの飯田市内。
終戦までは、愛知県知多で、繊維工場に勤めていたと。戦後父と結婚し、長野県の開拓団が多くいる茨城県に来ました。大変な苦労をしながらも、歌を歌ったりして、明るく生きてきた母です。
自分たちで開拓した土地は陸田として、また農地は野菜畑として、一生懸命働き、私と弟を育ててくれました。お金なんて無かったけれど、大抵そんな家庭が多くいた、開拓でした。
隣近所もみんな長野から来た人々で、年齢も近い集団ですから、何かあると助け合ってきました。貧乏を貧乏とも思っていなかった、当時の私です。
私が結婚して嫁いできた当時、姑が、「貧乏だった・・」とよく言いましたが、「私の方がもっと貧乏だったんだ・・」と、言いはしませんでしたが思ったものです。、
そんな苦労がたたってしまったものか、父は思いがけない難病で、60歳をやっと待って旅立ってしまいました・・母は1年間、泣き暮らし、ご近所の皆さんの世話もあって、1年後やっと立ち直りました。
それからは地元の老人会の副会長などを何年と鳴く勤めたり、カラオケ大会に出たり、クロッケーにも選手で出たり・・と、結構前を向いていて、私はほっとしていたのを覚えています。
そんな母に、追い打ちをかけたのが、息子の50歳での死です。
歳を取った母と、嫁と子供たちを残して、さっさと父の元に行ってしまった弟。母は、また泣く羽目になってしまった・・
そんな事があってから、母の認知症が目立ち始めました・・
いま思う事は、「夫の事、息子の事、それらを考えまい・・としたのかも」という事。苦労に苦労を重ねた母が、なんでこんな目に合わなくてはならなかったのか??と、私も泣きました。ケアハウスに入居し、94歳で亡くなるまで、皆さんにかわいがられた母。「とても優しくて、気遣いのある、いい人だった」と、よく言われました。
何もかも忘れて、「私はいま、長野の実家にいるの。」と、結婚したことも、開拓で茨城に入植した事も、子供を産んだことも、すべて忘れてしまった、あの頃が、帰って、母にとって幸せだったのかな・・と、よく思います。だって、悲しいことをすべて忘れてしまったのですから・・
父が死んでから、誘われてよく旅行に行っていました。孫も3人になって、いくらか心に余裕があったのかもしれません。楽しそうに、旅行先の話をして笑う母を、今も忘れられません。
ですから、母の日には、必ず、旅行に来ていける、ブラウスなどをプレゼントしたものです。そのブラウスについていた、ブローチの数々。決して高いものではないブローチを大切にしていたのがよく分かります。
「あなたから貰ったものだから」と、襟元につけたりして旅行に行ったようです。
父も弟も、早くに天に召されたけれど、母はその分、長生き出来たようにも思えます。
私はとっくに、父の年齢を超えました。
それでも、父はいまだ、私よりずっと年上・・のような気がします。
母の形見は、捨てるに捨てられないので、私の帽子や衣服につけて、愛用しようかな、と、思っています。
大切にしたい、品々です。(#^.^#)
モミジアオイ・・