徒然草

つれづれにさまざま書いています。

喜八阿弥陀堂と、経塚・・

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喜八阿弥陀堂・・親鸞聖人ゆかりの地。
   小美玉市与沢地区(旧小川町)

お堂のある場所は、「個人のお宅」なのです。許可を取ってからお参りします。

親鸞聖人と、阿弥陀堂のいわれ・・
 昔、与沢の豪族、長島喜八という人物の妻が、3人目の子を出産した折、難産の挙句に亡くなってしまった。
3人のお子はまだ幼く、末のお子は生まれたばかり、喜八も途方に暮れていたが、
亡くなった妻は子供が心配のあまり、毎晩亡霊となり、泣く泣く「この子たちを頼みます」と、
夢枕に現れた。
喜八はそんな折、「親鸞鹿島神宮にお参りに行く」と聞き、待ちわびて、会い、
彼は「小砂利を墓前に積んで待ちなさい」と言い終え、鹿島に旅立った。

待っていると、帰り道、親鸞が立ち寄り、墓前の小砂利の中から一つを手に取って、
梵字を書き、「吾が仏法盛んなら此の石残らず写れよ」と、唱えながら、墓の中に収めた。
また上人は、喜八の家に、阿弥陀如来聖徳太子・善導大師の三幅を描き、立ち去ったとされる。

その後、妻の亡霊は現れなくなった・・と伝えられます。
喜八が親鸞聖人に感謝をこめて建てたお堂が、喜八阿弥陀です。
また、梵字を書き、埋めたところが、経塚です。             小美玉市HPより


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阿弥陀如来聖徳太子・善導大師の三幅・・(茨城県有形文化財指定)

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古木の桜の立っていた場所・・
経塚もこのあたりでしょうか・・

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親鸞が立ち寄り、墓前の小砂利の中から一つを手に取って、
梵字を書き、「吾が仏法盛んなら此の石残らず写れよ」と、唱えながら、墓の中に収めた・・
その経塚です。
ちょっと前までは、こちらには、桜の古木と、根元に塚があったと言われます。

阿弥陀堂から少し離れた場所)

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昔の写真・・(お借りしました)
確かに、桜の古木がありました・・

残っていないのは残念ですが、親鸞聖人が描き埋めたとされる小石たちは、
今もこの根のあたりに埋まっているものと思われます。
生きとし生けるものは、やがて、寿命が尽きるものです・・・


※ 親鸞聖人・上人はしばらくの間、笠間の稲田の草庵に滞在していました。


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