徒然草

つれづれにさまざま書いています。

「高熱隧道」 吉村 昭  著・・

 

 「高熱隧道」

 

   吉村 昭  著  新潮文庫

     昭和50年7月25日 発行
     令和5年12月5日 第71刷


 黒部第三ダムは いかにして作られたか

 

黒部第三発電所     着工・・昭和11年8月
 (欅平~仙人谷まで) 完工・・昭和15年11月

 

黒部川上で行方不明になったのは 富山第35聯(れん)隊所属の中尉・少尉ら青年将校7名であった。彼ら将校たちは佐川組が請け負っている軌道トンネル工事が 世界的にも極めてまれな特異な性格を持っていることを知り、やってきたのだった。


隧道は温泉の湧出する地帯を通る、それを強引に貫こうとする工事であった。坑内には熱い湯気が充満し、その熱さのために奥までは行けない・・と。それを将校たちは知っていたにもかかわらず、中に入って行った。行方不明となった若い彼らはやがて全員が死体で見つかった・・

 

黒部第三発電所のある欅平から、現在の黒部第四発電所のある仙人谷までの
坑区には 熱湯温度166度という灼熱地獄があり、そこを通す隧道工事は熾烈を極め、この工事期間になんと300余名の犠牲者を出すことになる。
その間、最初は年齢的にも若い坑員達だった、しかし彼らは次々と倒れ、後には年齢のいった50~60、70歳といった男たちが この熾烈極まりない工事に携わった。

 

一年を通し、過酷な黒部の山中である。秋は早くも去り冬にはかなりの積雪をし春になれば山々に雪崩の轟音が響き渡った。それは想像を絶した。
更に、大きな事故が起きる。
頑丈に造られた坑員たちの宿舎がある、ある夜大きな轟音が響き渡った、そして、目に映ったのは・・その建物が跡形もなく無くなっていたのである。

後に、「泡(ほう)雪崩」であることが分かる。事故の数日前からシベリア高気圧によって猛吹が続き1000メートルにもおよぶ急傾斜を大崩落したと考えられた。宿舎は元あった場所からひと山超え 580メートル先の山のてっぺんにあった・・
その犠牲者、188名。中には肢体がばらばらになったものもいた、それら肢体を寄せ集めた・・

 

この過酷な隧道工事に 誰も逃げ出すものはいなかった。
それは・・坑員みなが貧乏にあえいでいたからである。高い賃金が出たために これらの惨劇を目の当たりにしても誰もやめようというものはいなかった・・

 

 

 

 

数年前、トロッコ列車で鐘釣駅まで行きました。(雪のため、欅平までは行けなかった) それだけでも大変な工事だと感じました。
そしてさらに近年 欅平から千人沢ダム、黒部第四ダムまで開通しました。それをテレビ番組の「ぶらタモリ」で拝見し、タモリさんたちが 灼熱地獄の辺りを散策していて、「犠牲者も出たんですよね」と言っているのを聞き、この本を探し当てました。
しかし・・番組ではさすがに犠牲者の人数までは言っておらず、本を読みもう、驚愕しました。

作者の吉村氏は この現状を多くの実際に携わった方々と面会し話など等聞かれたと書いてあります。ですからフィクションではなく、現実に起こった事実となっています。

 

工事はちょうど戦争真っ盛りの時期です。
そんな時期、国の威信をかけての大工事だったと。


多くの犠牲者と、長い年月をかけやっと完成した黒四迄の道。
この本をご覧になる事を、ぜひ、おすすめします。