2020年のお正月に来た手紙です~~
何だろうか?と、不思議でいおんでいくうちに、はたっ!と思いだしました。
そういえば・・・ずいぶん前にイオン水戸内原店のイベントのコーナーがあって、二十年後の自分にお手紙を書きましょう…的なことをやっていて、私も書いた記憶がよみがえりました。
当然、書いた内容は全く覚えていませんでした。
たしか、はがきに書いてポストに入れた事があった。
あの頃を想いだして見ると、「果たして本当に配達されるか?」がありました。
まあ・・離婚でもしない限り、今のうちにずっといることになるので、当然はがきはとど行くかなあ・・と。
ワーポロ打ちに書き換えて送ってくれたんですね~~
懐かしい内容でした。
長男一家は、遠い青森で出産、この年転勤で仙台にやってきた様子。小さな我が子を抱えての引っ越しは、さぞ大変だったでしょう。冬の青森で苦労したようです。
主人は、2017年春に定年退職を控え、無事に勤めを終えまして、2017年春からは、地元のタクシーに就職。
次男は、東京都中野のコンピュータ会社で働いていました。
私は転職し、1ヵ月100時間働ける店に行きました。
定年まで働くつもりでしたが、「いじめに合って」4年で止めました。
その後、義母の介護を本格的に始めました。
ちなみに、いじめに合った店は、私が辞めた後、一か月で倒産しました。(笑)
クロッカス・・
長男は、その後、2011年福島県原発事故で大ごとになり、この時、いわき市で働いていました。嫁と子供を茨城に返し、仕事にならないと、会社も転勤を勧めて、茨城に帰って来ました。孫は幼稚園生になっていました。
思いもかけず、次男が体調不良で帰って来ました。
その会社で懸命に働いたはいいけど、休みも無し、働いたお金を使う事も無く、貯金のみでが増えていくような環境だったらしく、体を壊して、やむなく退職。
その後は家にいて医者通い。まあ・・・・暗い過程でした。
義母は寝たきり、次男は寡黙。私は介護に明け暮れていました。
主人が、自宅をオール電化にしました。
義母の台所での火の始末で火事になるところだったことがショックでした。
オール電化にして、義母は使わなくなって一安心。でも、寝たきりになりました。
2006年の頃、みんな順調にいっていた我が家の様子。
それが数年で、あれこれとおこって行ったんですね・・
いま思えば、あの頃は誰もが必至だったような気がします。
一つの家で浮き沈みは必ずあるとはいえ、「なんで?家だけ?」と良く思うものです。仕方ない事でも「隣の芝生は青く見える」それなんですね。
昔、実家の私の母が、私によく言い聞かせた言葉があります、。
「他所のお宅をうらやましいと思うけど、その家でも、必ず人様に言えない辛い悲しいことが、一つ、二つはあるものなのよ。能ある鷹は それを表に出さないの。あなたもいろいろあるけど、前を向いて生きるの。そうすれば、おのずと、光が差してくるものなのよ」・・・って。
母って・・本当に思いやりのある人だったのです・・
ロウバイ・・
八戸で生まれた孫はいわき市で幼稚園児になり、原発や津波で茨城の我が家の近くに越してきて、小学校中学校と進み、去年はここに家を建てて、目の前にいますし。
次男も病気を持ちながらではありますが、就職もコンピューターの方で決まって、二年近くなりました。
主人はタクシーで乗客が無いので、近くの造園業者のパートに、毎日のように行っています。
実家の母94歳・義父83歳、義母91歳、そして、実家の父、難病で60歳、弟50歳。
みんな天国に召されていきましたが、今の家族は皆元気です。
きっと・・・こういう時間が持てる時って、必ず来るものなんでしょうね。
何はともあれ、2006年の手紙から、あれこれとありましたが、自然の流れのような 気もします。
そう言えば、はがきの最後に、「大和っち、4歳」と書かれています~~
大和が家族になって、それはそれは癒された事が多々あって、ずっといてほしいと常に思ったものです。その後、10年生きてくれて、14年弱の命を全うしました。
やさしかった、賢かった大和くん。主人が買った枝垂れ桜の根元に今はいます。
時折、「小麦ちゃん」が訪ねていくようですよ。(#^.^#)
2006年のはがきが舞い込んで、いろいろなことが、ぱあ・・・っと、浮かんでは消えました。こうした手紙を書いて送っていうのもいいものですね。また、ちゃんと清書にして送って下さって、とても嬉しかったです。
ありがとうございました。(^_^)/
フウセンカズラの種・・