徒然草

つれづれにさまざま書いています。

実父の記録・「開拓の美名の下で」

「開拓の美名の下で」
  
  満蒙開拓青少年義勇軍の記録


   第三文明社 昭和59年8月15日 初版第1刷発行
         昭和59年11月15日 初版第3刷発行

 


目次・・第一章 千遺の途   11名
    第二章 辛苦の汗涙  10名
    第三章 報酬なき日々 9名

 

 


満州に日本の傀儡(かいらい)国家「満州国」が建国されたのは昭和6年3月
それ以降満州には日本からの開拓移民が試験的に送られていた。
しかしながら当時軍国主義日本の指導者達は「満州移民の役割を開拓のみとはしていなかった」
「治安維持については義勇軍には軍事的な役割も含まれていた。」
そして昭和12年12月「満蒙開拓青少年義勇軍」発足。
その後、義勇軍に参加した若者は8万6千人と言われる。
その多くは満州の原野で飢えと寒さと、地獄の逃避行、幾多の辛酸をなめた。
国民を国策遂行の道具とした指導者の欺瞞性を垣間見ることが出来る・・
    「本書、発行の辞・中村新氏の随行による」


こちらの本は満蒙開拓青少年義勇軍に参加し 夢を持って満州に行った
当時の若者の、30名の赤裸々な手記です。
その中の1ページに、なんと実父の文章がありました。

父は長野県の農家の三男坊に生まれ 暮らしは豊などではなく、まして
3男でしたから 貰える土地もほんの少しだったでしょう。
義勇軍に参加しまだ少年だったころ、満州に渡りました。

私は女の子でしたから、まして父はあまり満州のことは言わなかったです。
ただ、途中現地で「肺浸潤」にかかったと診断され、日本に送り返されました。
その後満州に戻ろうとしましたが 終戦を迎え、戻らなかった・・事はよく口にしました。
私の知ることはあまりなく、「満州はとても寒かった、長野県での寒さとは全く違う。
食べ物も無かった・・」と言っていた事もありました。

 

父の手記は4ページに渡るものです。長い文章です。

昭和16年3月茨城県の内原(加藤完治氏)に入所、横川中隊所属。同6月渡満。
19年春西海老瀧川開拓団・移行。
同12月肺病で帰国、20年7月松本50連隊入隊。
横須賀で終戦


たった16歳の少年が夢とはいえ、遠い満州に行くことを家族は猛反対だったらしい。
特に父親は厳しく、しかし土地も少なく三男坊だった父、また学校の先生の説得もあって、やっと許されたらしい。父のお父さんはシベリア出征の経験者だったので、その戦争の悲惨さが十分わかっていたのでしょう。
しかし、義勇軍という開拓団」ならば・・と、しまいには折れたのでしょう。

開拓者として満州に渡ると、「10町歩」もの土地が自分のものになる・・と教えられた少年は大きな夢を抱き、内原の訓練を3か月受けて いよいよ渡満しました。
父が内原に入り、訓練を受けていた当時、3月から5月でしたから今も残る内原の訓練所から常磐線内原駅に至る「渡満道路の桜」はさぞ、満開だったことでしょう。

 

 

    訓練所から常磐線内原駅へと続く「渡満道路」の桜・・

     (義勇軍はこの道を通り内原駅から旅立った)

 

満州の地は 思っていたものとは大きくかけ離れていたと書いてあります。
農作業は春から夏まで、秋から翌年初夏までは極寒で作物など育たなく、少年たちは
毎日軍事訓練を受けたそうです。これは思いもよらなかった・・
それでも、訓練が終われば、10町歩の土地が自分のものになる・・という夢があり、
長い極寒の冬を耐え忍んだ。

しかし、軍からの配給は、とてもお粗末。育ち盛りの青年少年はいつも腹をすかせていた。アワやコウリャン、大豆、月に一度の魚。しかも腹いっぱい食べることなど無かった・・
野生の鹿や雉を狩り食べたり、現地の人の畑から野菜を盗んで食べたりもした。
水質も極端に悪く、父は平気だったらしいですが、それで死んでいった仲間もいたと。
ホームシックにかかり「帰りたい」と叫ぶ人もたくさんいた・・

ある日、満州人の所から盗んだものを 先輩たちが見せてくれた。
なんと・・人間の頭蓋骨がいくつも並べられていた・・

 

内原訓練所の跡地・・



10月の半ばから体調を崩し、見て貰ったところ、「肺浸潤(はいしんじゅん)」にかかっていると言われ、本国に強制送還。所が日本で見て貰ったところ、それが誤診で「栄養失調」だった・・
せっかく10~15町歩もの土地が自分のものになる矢先の「誤診」で、がっかりした・・
満州へ帰ろうとしましたがままならず、やがて横須賀で終戦を迎えた。

 



父の手記にはもっと詳しいことが載っていますが、
「この病気の誤診があったからこそ、その後の満州でのとても悲惨な逃避行に
合わずに済んだ・・」とも。
しかし、長い時間が過ぎて見て考えることは、
「教育された事とはいえ、中国人にとっては侵略であったし、家も、家族も失った彼らの悲しみや、死者を冒とくされた人々の無念さや悲しみなど、あってはならないことで、私はこの先も平和への努力をしなければなりません。
戦争は絶対にいけません。」・・と最後に綴っています。

 

父は比較的寡黙の人で滅多に満州での事など言いませんでした。
まして農閑期には厳しい軍事訓練をしたことなど、地元民の野菜や穀物を盗み腹の足しにしたこと等々、当然話は無かったです。
父としては、加藤寛治氏の強い信念の元、夢に向かって行った事でもありますし、話したくなかったのでしょう。

 

他の29名の方々も、おおよそ同じような体験記を書かれています。
父は終戦間際病気と判断され日本に帰されましたが残った方々の中には、終戦間際にソ連兵が攻めてきて目の前で仲間が死んでいったことや、シベリア抑留の大変悲惨な内容などもありました。
それを思うと、父はまだまだ、幸せだったとも思えます。
しかし、少しお酒を飲むと必ず言っていました。
多くの仲間を失った父。
「途中で帰ってきてしまった・・俺は非国民だ・・」・・と。


戦争は二度と、二度と起こしてはなりません。

 

 

☆彡 本は実父と懇意にされていた方から頂戴いたしました。