徒然草

つれづれにさまざま書いています。

父と母とに想う事・・①

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父と母の故郷は長野県、いまの飯田市

父は伊賀良(いがら)、母は、鼎(かなえ)。

父の実家は農家、母の実家は、加治屋だっだようです。

母は娘時代を、愛知県の織物工場で働き過ごしたそうで、その工場はたいそう大きく、

織機が毎日音を立てて布を織っていたと。いまでいう、主任にまで行ったそうです。


父は中学・高校を経てのち、

加藤完治氏の下で農業を学ぶべく、茨城県友部町(笠間市)の日本国民高等学校に進学。

そこから、教えに従いつつ、満州国へ、「義勇軍」として旅だったそうです。

夢は大きく、志も大いにあったと言っていました。

しかし、終戦の数か月前、肺炎にかかり生死の危機にあり、急きょ日本に帰国。

やっと病気が治り、満州に帰ろうと思っていたころ、戦争は日本敗戦の危機となり、

ゼロ戦は行ったきり戻らず、やがて原爆投下、そして、終戦

父は、めったにその頃の事は話しませんでしたが「義勇軍」として行っていた盟友たちは、

多くが亡くなったようです。

やがて終戦後、母と結婚、茨城に開拓者として入植。

これは加藤完治氏の影響が大きかったようです。

 

戦後の入植した土地は、山も荒れ果てていたし、もちろんそんな荒れ地でも、たくさんのお金を払わなければ自分のものにもならなかったために、入植者たちは多大な借金をして、自分たちで、開墾し、開拓していったのです。

ブルトーザーなど、無いし、クワやマンノウで、手で掘って木を抜いた・・と言いました。

並大抵の苦労ではなかった・・まして、自由になるお金も無かった。

家はバラック小屋も同然。

でも、「自分たちの土地、田んぼになる」と、希望を胸に頑張ったと。

 

私が育つ頃、小さな家でしたが、母はいつも笑い、歌を歌っていましたし、

父は、ギターをかき鳴らして、「たれか故郷を思わざる・・」など、よく歌いました。

そんな、前向きな家族でしたから、私も弟も、ちっとも貧乏が嫌だとは思わなかったし、

まあ、それが普通でした。

お隣も、そのまたお隣も、みんなそんな家族でした。

開拓者たちが集まってできた集落でしたから、言葉も、主に「長野弁」。

あとは宮城弁、山形弁。

私たちが小学校に入学したとき、一番驚いたのが、「茨城弁」というか、地元の方言でした。


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今まで、父母や、お隣やご近所は、みんな長野の方言だったから、それを言葉として育ったわけで。長野弁は「そうだら」と、「ら」がつくんですよね。

学校に入ると、まず「・・だっぺ」「そだっぺ」「んだっぺよお~~」・・・って。()

「電信柱」をみんなが「でんきんばしら」といい、私の言う、「電信柱」がおかしい、とみんな笑ったのを今でも思い出します。

「出島弁」()にすぐに慣れてしまうのも、子供ですね。()

 

母も父も、ちっとも裕福にはならなかったけれど、毎日毎日、田んぼや畑で、暗くなるまで働き、夜父は安い酒を飲んでご機嫌な日々。

「XX開拓」は、おおよそ80軒ありましたから、秋収穫が終わると、「大運動」が開かれるようになり、班ごとに競ったりしたし、中でも「仮装行列」は最大の見ものでした。

父が女形に扮した時、卒倒しそうでしたし。()

私もハワイアンの格好で出た記憶も・・・()

 

中学、高校と地元から通い、就職して寮生活になった頃、やっと、生活にも余裕が出たようでした。弟が東京の「東芝」に就職した当時、母も父も、よく自慢をしたものです。

あの当時から「東芝」といえば一流企業でしたから。

 

二町歩の陸田と数反歩の畑を持っていましたから、お米は100俵を供出。

そのほか、夏はスイカ、秋は、落花生、冬はさといも・・

休む間もなく働いていました。

私が結婚しやがて弟もお嫁さんを連れて実家に帰ってきて、孫が生まれて・・

母はよく言っていました。「私は本当に幸せよ」って。

これは母の口癖のように、いつもいつも私に言っていました。

父は「大工」の腕も持っていて、農閑期はそっちの方もやっていて、帰ってきた弟も、同じように父の下で働いていましたから、そんな我が家を、「幸せ」だと思っていたのでしょう。

内孫も3人になり、お嫁さんも明るい人で、いい家庭だったと思います。


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次回に続きます・・(#^.^#)

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