徒然草

つれづれにさまざま書いています。

父と母とに想う事・・②

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幸せな時って、短いとよく言いますが、父が働きづめで 難病にかかったのは、60を目の前にしたころ。何の病気か分からず、大変だったようです。

「60で年金を貰ったらお母さんにカラオケの機会を買ってやるからな」と言っていた父。

60歳と、3か月で、本当に短い生涯を閉じました。

いまなら、病名も分かったと思うけど、とうとう分からず、変な名前の病名を知らされたと、弟が言いました。そんな病名は、事典を調べてもありませんし、結局、分からず仕舞いで、

対処の方法も無かったようです・・それが残念です。

 

母は、一年間も、泣き暮らしました。

行くと、泣いてしまいます。どうしてやりようもありませんでしたね・・

そんなにお父さんの事が好きだったのか・・と、今さらながら思う私です。

でも、一年経って、ご近所の方々の支えもあって、旅行にも行くようになり、カラオケもやって、孫たちの話し相手になって、また、「幸せよ」の言葉が出まして。

数年間は、婦人会の副部長や、数々の役員も任せられる、頼りになるおばさんだった。

生き生きとしていた母を思い出します。

 

弟が突然亡くなった頃、母の認知症が発覚しました。14年前です。

いま、新薬が開発され、早めに飲むといいとされますが、あの当時はそんな薬など無くて、

でも、やっと「認知症」が世に出てきたころかもしれません。

 

弟が亡くなり、認知症の母をケアハウスで預かって貰う事にしましたが、正気に戻る事もあって、きっと、その頃が一番母が辛かったかもしれません。

でも、母のいいところは大抵の方とはすぐに仲良くなって、相手を思いやる気持ちが大きいこと。職員の方や、入所の方々とも、すぐに仲良くなって、また母のあの口癖を聞くことになりました。「私は幸せよ~~」・・って。

 
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ホームでの母・・ひ孫を抱いて。
私のあげた洋服をいつも大切そうに着てくれていました。


ホームでは結構人気者だったようで、私もほっとしていました。

でも、母の病気はぐんぐん進んで、「私は実家にいる。(長野県)」「私はいま、18歳」

「結婚なんて今からよ」「そこに神社があるでしょ。家の前が神社だから」

「まあ、あなた。茨城から長野県まで、私に会いに来てくれたの!?大変だったね」

私の名前も、かわいがってくれた私の子供、初孫の事も、すっかり忘れ去りました。

悲しかったです・・子供を産んだことも、最愛の父の事も、忘れ去りましたが、早くに死んでしまった息子の事を、ふと・・想いだす時もあって、悲しげでした。

 

でも、良く思ったものです。

母は、きっと、いまが一番幸せではないかしら・・と。

あんなに苦労に苦労を重ねた開拓時代のこと。食べるものが無かった苦しい時のこと。

夫が60歳で母の手から遠くに行ってしまったこと。最愛の息子に先立たれたこと。

すべてを忘れて、いま、目の前の楽しい事しかわからないのですから、きっと、「幸せだった」のかもしれません。

 

ホームにお世話になって14年。長いようで短いような年月を、懸命に生きました。

94歳・・長寿だったと思います。

すごく安らかな顔でした。すーー・・っと・・旅だったようです。

前向きに、ただ懸命に生きぬいた母。

夫と娘と息子と、4人のささやかな幸せな家庭を築いて生き抜きました。

決して裕福な生活ではなかった昔。お嫁さんがやって来て、孫に恵まれて、

ひ孫も抱けて、さぞ、嬉しかったことでしょう。

そう思うと、母を尊敬できます。

私はダメな娘ですが、寡黙で懸命に頑張った父の血と 「幸せ」といつも言っていた明るい母の血を半分ずつ受け継いできたんですもの、私も頑張らねばならないと、そう思います。

 

早く父と弟の元に行き、安らかに、あちらで暮らしてください。

あなたのお家の孫娘たちはみな結婚し、お子も生まれて幸せそうですよ。

私も、あとを取ってくれる息子もいますし、主人も健康で頑張っていますから、安心してくださいね。

 

パソコンやスマートフォン、AIや自動運転の車・・時代はめまぐるしく変わりました。

60年前と全く変わってしまった世の中です。でも、お母さんも、お父さんも、弟も、

私の中に生涯生きているでしょう。お父さんの年をずいぶん前に越してしまいましたが、

私なりに前を向いていこうと思っていますよ。

 
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お母さん、どうもありがとうね。

小さかった時のことを思い出します・・

陸田に引いた霞ヶ浦の用水路の水は、あの頃とてもきれいで澄んでいました。

夕方、汗を流しにお隣のおじさんと父と、私と弟と、その用水路に飛び込んで遊んだ事。

夏の夜は モスラのような大きな蛾が飛んできて、大騒ぎだったこと、()

コガネムシが大量にやって来るので、洗面器の水は欠かさず、私が用意したこと、

弟が責任もって育てた仔牛を売らざるを得なかった時、弟が毎晩泣き暮らしたこと・・

まだまだ思い出します・・

なんで幼かったときの事を思い出すと、涙が出るのでしょうね・・



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※ 新生開拓30年の道   昭和51年11月18日 発行
      この一冊の本の中に、開拓の30年間の歴史が詰まっていて、弟や父母や、ご近所の人々の
      懐かしい顔がたくさん詰まっています。歴史は短いですが、私の生きてきた「証」でもあります・・



父と母と似想う事 ①



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