徒然草

つれづれにさまざま書いています。

真壁の街の「奉安殿」・・

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「奉安殿」・・・ 桜川市真壁町内

真壁の街に・・「奉安殿」が今も残っていました。
奉安殿・・・なるものも、私は全く知らなかったのですが、看板を見て、ハタ・・と思いだしました。
そういえば・・・ 昔、良く、父や母が話していたものでした。
教育勅語」・・・なるものの事や、ちゃんとお辞儀をして通った・・・様な事を。
「ほんとうになぁ・・・天皇様は神さまだったからな・・・」などと。
「神さまが、現人(あらひと)神になった・・・」とか。

教育勅語」とは・・ 正確には「教育二関スル勅語
1890年(明治23年)に発布された、国民道徳の基本・・等を示した内容。

父も母も戦中を生き抜きました。 母は尋常小学校を卒業し、長野県飯田から愛知県に、機織り工場で何年も勤めたそうです。
父は、尋常高等学校を卒業し、やはり長野県飯田市から、茨城県内原の、加藤完治氏を頼り、
内原の学校で、師について農業を学び、やがて、満州に渡りました。
満州では大変な苦労をしたようです。その時の話は子供たちに、したがりませんでした・・
よくもまあ・・・生きて戻れたものです。

帰国してから、母と結婚。長野県で一団を組んで茨城県へ農業移住をしたそうです。
山をクワひとつで開墾して、やはり大変な苦労をしました。
本当に・・イも言われぬ…貧乏時代でした・・・

その当時も、よく、内原でのことは言いました。
農業をやっていくうえで、「加藤完治氏」の教えは、いつも頭にあったようです・・・
私が小さい頃は、周り一帯は長野の方々でしたから、もちろん「長野弁」でした。
小学校に上がった時、「茨城弁」に接して、大変驚きました・・・(笑)

父も母も、このような「奉安殿」が学校の正門あたりにあったのでしょう。
その前を通るときは、姿勢を正してお辞儀をした・・・
そんな幼い父と母を思います・・・


昔とは、雲泥の差の生活様式になった。
でもきっと・・・昔を懐かしく思い出したことでしょう・・・
私も幼かった頃を思い出しました。超が付くほど、貧乏ではあったものの、
いつも笑いが絶えなかったあの頃を・・

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