徒然草

つれづれにさまざま書いています。

苦労の末に・・

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私の実の母のこと。
G・Wになろうとする頃、姪から電話が。
何でも、洗剤のクレンザーを食べてしまった・・とのこと。
救急搬送されて、一時は「もう・・」とまで考えました。
母は重度の痴呆。悲しいことに娘のこと・・も忘れています。
ホームにお世話になっていますが、とても元気そうでした。
歩けるために何でも自分でやらせていたようです。
ある日・・こんな事故が起きるなんて誰も創造だにしません。
 
おかげさまで、次の日には元気を取り戻し 逢いにいった私に
「こんにちわ~~~、まあ、遠いところを大変だったわね」って、笑顔を向けてくれました。
その母が、ずーーっとICUにお世話になることに。
あんなに元気だったのに、急変して、人工呼吸器を付けていました。
 
母は長野県飯田市の生まれ。尋常小学校を卒業し、愛知県の製糸工場で長年働いていました。
戦後、父と共に、茨城に開拓民として入所。
自分たちで田畑を開墾し、大変な苦労をしました。お金の一銭もない時代でした。
でも、回りも似たようなもの、みんな助け合って暮らしてきました。
私も弟も、それが「貧乏」だなんて、思ったこともなかった・・
 
母は農作業中、よく歌を歌っていました、口ずさんでいた・・って感じ。
「宵待ち草」とか、「赤とんぼ」とか。
あるいは「誰か故郷を思わざる」なんて曲も。
いつも明るく父と大変な作業をこなしていました。
 
私たちも大きくなり、家庭を持ち、父も母も内孫を抱いて大喜び。
そんな「これから」というとき、父が難病で亡くなりました、母は、一年間泣き暮らしました。
でも、その後はお友達と旅行になど行き、カラオケをやったり、楽しんでいました。
突然弟が亡くなって・・
母の痴呆が始まったのです。
「現実を受け止められない」ってことが 痴呆を産んでしまった」・・と、医師は言いました。
 
ホームに入ってから、環境も良かったのか、たくさん飲んでいた薬も飲まなくなって、大変元気でした。私も、これでよかった・・・と、思ったものです。
「みんなと夕べ、カラオケで歌ったの!」なんて、とても朗らか、少女のようでした。
 
そんな苦労を重ねてきた母が、「苦労して築いてきた家庭」をすっかり忘れ・・
娘の顔も忘れて・・なんかとても切ないです。
病院でおよそ三週間暮らすうちに、またまた痴呆が進みました。
 
おかげさまで人工呼吸器も外れ、水曜日はホームに帰ることに。
もう、自力では歩けないでしょう。
姪が言いました。
「医者は 早く退院してくれ!の一点張りで、情けというものがない。
医者ではもう治せないから、とっとと出て行ってくれ・・と暗に言ってるようなもの。
点滴もしてるのに・・って言ったら ”病院では当然するものなんで やらなくても大丈夫です”と、冷たく言われた」
もう助かる見込みがないから、後の患者のためにとっとと出て行ってくれ・・・と言うことらしい・・
 
姪には「もう充分 あなたたちに良くしてもらったから。おばあちゃんもそう言ってるから」って、言いました。
明日は仲間のいるホームに帰ります。
見知った顔の中で暮らせれば、母もきっと笑顔が戻るでしょう。
 
義父の時、もう助からないと医師が言いました。
「もう、病院に来なくてもいいですよ、お家にいなさい」と、言いました。
義父は寝たきりになり、およそ9ヵ月後他界。最後まで私の名前を呼んでいましたっけ・・
病院とはそんなものでしょうか。
今回「怒り」を感じるのは・・私だけでしょうか・・
 
母はすべてを忘れようとしています。
ある意味それは、母にとって「幸せ」なことかもしれません
 
プリムラ・・優しい花です。なんか・・・母を思います。
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