徒然草

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「水戸黄門様」・・徳川光圀公

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徳川光圀  生誕 寛永5年6月10日(1628年7月11日) 
      死没 元禄13年12月6日(1701年1月14日) 享年73歳


江戸時代の常陸国水戸藩第2代藩主。水戸黄門としても知られる。
号は「梅里」。
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水戸藩初代藩主徳川頼房の三男、母は側室・谷氏。徳川家康の孫に当たる。
藩主時代には寺社改革や殉死の禁止、快風丸建造による蝦夷地の探検などを行ったほか、
後に『大日本史』と呼ばれる修史事業に着手し、古典研究や文化財の保存活動など数々の文化事業を行った。
また、徳川一門の長老として、将軍綱吉期には幕政にも影響力を持った。

大日本史』の編纂に必要な資料収集のために家臣を諸国に派遣したことや、
隠居後に水戸藩領内を巡視した話などから諸国漫遊がイメージされたと思われるが、
実際の光圀は日光、鎌倉、金沢八景、房総などしか訪れたことがなく、
現在の関東地方の範囲から出た記録は無い。

光圀は、兄(頼重)を差し置いて藩主になったことを後悔していたといわれ、
後継に兄の子(綱方)を養子に迎え世継ぎとしたが、早世したためその弟・綱條を養子に迎え世継ぎとした。
また、光圀には側室との間に実子(頼常)がいたが、この実子は兄の養子に出していた。

光圀は、学者肌で非常に好奇心の強いことでも知られており、様々な逸話が残っている。

日本の歴史上、最初に光圀が食べたとされるものは、ラーメンをはじめ、餃子、チーズ、牛乳酒、黒豆納豆がある。
肉食が忌避されていたこの時代に、光圀は5代将軍徳川綱吉が制定した生類憐みの令を無視して
牛肉、豚肉、羊肉などを食べていた。さらに、野犬50匹を捕らえてその皮を綱吉に献上したこともある。

また、オランダ製の靴下、すなわちメリヤス足袋(日本最古)を使用したり、
ワインを愛飲するなど南蛮の物に興味を示し、朱舜水を招き、海外から朝鮮人参やインコを取り寄せ、育てている。
蝦夷地探索のため黒人を2人雇い入れ、そのまま譜代の家臣にしてしまってもいる。
他に水戸に来た中国人(もしかしたら清朝から亡命して来た漢民族)も譜代の家臣か使用人にした。

大日本史』完成までには光圀の死後250年もの時間を費やすこととなり、
光圀の事業は後の水戸学と呼ばれる歴史学の形成につながり、思想的影響も与える。
大日本史の編纂により、水戸藩は年間財政収入の三分の一近くをこの事業に注ぎ込むこととなる。

墓所 - 常陸太田市瑞竜町の瑞龍山にあり、現在、日本最大の儒式墓所となっている
霊廟 - 母の菩提寺である常陸太田市新宿町の靖定山久昌寺の義公廟がある。
奉斎神社 - 水戸市常磐町鎮座の常磐神社に主祭神として祀る。

「フリー百科事典 ウィキペディアから・・」

茨城の水戸といえば、光圀公の黄門様。
水戸黄門様として有名な光圀公、諸国を旅した物語で大変有名ですね。(「水戸黄門漫遊記」)
まあ、それも面白おかしく脚色されたものですが・・関東を歩いただけとの事実が。
助さん・格さんもおなじみです。

助さんは、物語「水戸黄門」で格さんと共に水戸光圀に仕える家臣。
実在の徳川光圀の家臣であった佐々介三郎(さっさ すけさぶろう)がモデルであるといわれている。

格さんは物語「水戸黄門」に登場する架空の人物。
モデルは実在の水戸藩士・安積澹泊(通称、覚兵衛)。

光圀は佐々介三郎に命じて 諸国の歴史的資料を探させたと言われています。
そのため、佐々介三郎は大変な旅を強いられたそうです。
長旅の不安をもらす手紙も残されているようです・・

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水戸黄門様の食べた「ラーメン」も再現されて市内で食べることもできます。
最近密かなブームのようですよ。
当時のレシピを出来る限り再現して作られたのが、《水戸藩らーめん》と呼ばれています。
見た目は蕎麦、食べてみるとラーメン、レシピは古いが新しい味。
誰も見たことも食べたこともない、いにしえの蓮根ラーメンです~~

ネットで注文して食べてみました。
レンコンの味が仄かにしました、ちょっと黒っぽい麺です。
水戸の街中で、食べることもできるようです。
水戸黄門様が食べたラーメン、ぜひ召し上がってくださいませ。

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川崎製麺所所 HP
http://www.mitohan.co.jp/


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