徒然草

つれづれにさまざま書いています。

誰か故郷を思わざる・・父の思い出

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お昼のニュースの中で 「古賀政男」さんの歌のことを放映していました。
たくさんの曲を作った彼ですが その曲は私の父の思い出でもあります。
私が小さい時に 何かにつけ 口ずさんでいた古賀メロディー
テレビを見ていてふ・・っと思い出しました。

父と母は 信州の今の飯田市生まれ。
若い頃知り合って一緒に開拓者として茨城に来てから大変な苦労をしてきました。

飯田市は長野でもとても風光明媚な土地。
母は飯田市の「かなえ」生まれ。
父は「いがら」生まれ。

父のふるさとは 四方を高い山に囲まれた 平地の少ない土地でした。
毎日この山を見て育ったのでしょう。
緑一色でとてもきれいなところでした。
母の生まれたかなえのすぐ横には 有名な天竜川がゆうゆうと流れていました。
母はその川を見て育ったんです。

そんな父や母の慰めは 「歌」でした。
古賀メロディーはその中でも好きな歌がたくさんあったような記憶があります。

「誰か故郷を想わざる 」

作詩 西条八十  作曲 古賀政男  唄 霧島昇
 
   花摘む野辺に 日は落ちて
  みんなで肩を 組みながら
  唄をうたった 帰りみち
  幼馴染みの あの友この友
  あゝ誰か故郷を想わざる


父は 「誰か故郷を思わざる」を良く口ずさんでいました。
父の亡くなった年に近づいた近年、なんであの歌を好きだったのか
なんとなく分かるような気がします。

貧乏で遠い長野の家には帰れなかった両親。
今のように高速道路もなく、列車といえば 新宿から出る単線の「飯田線」のみ。
あの頃、新宿からなんと6時間も飯田までかかりました。
常磐線で上野まで出て 新宿まで行くのさえ大変だった時代です。
滅多に帰れなかった故郷。
父の脳裏に あのみどりの山々が映っていたのかもしれません。

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昭和15年、戦争真っ只中の頃の曲です。
古賀政男さんは戦中 戦争のためにその応援歌を作るように言われたそうです。
彼はなかなか勇ましい曲は書けなかったそうで、それでも曲は作り続けたそうです。

この「誰か・・・」も そんな中の曲で 当時の軍部は「この曲は!」と認めなかったとか。
でも予想に反して 外国の戦場の真っ只中にいる人々がこぞって歌い始めて
大流行したそうです。
弾丸の飛び交う過酷な中、人々の心の支えになった歌だったんですねえ・・・
この曲と共に 父の顔を思い出し、歌っていた声を思い出した私です・・・

60歳で逝ってしまった父・・・
泣けてきちゃった・・・・

ブログに曲を貼り付けることができない私ですので
こちらでお聞きくださいませ。
http://8.health-life.net/~susa26/natumero/11-15/dareka.html

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/dc/f9/gwqtx445/folder/1484019/img_1484019_49519141_8?1183110655