徒然草

つれづれにさまざま書いています。

父の事・・・

イメージ 1

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/dc/f9/gwqtx445/folder/1484019/img_1484019_52247301_25?1195891120

私の父は 父が60歳の時に亡くなりました。
私は結婚して長男をもうけ 弟も家業を継ぐべく 実家に戻っていました。
孫も生まれてそれなりに幸せだったようです。

父は難病でした。
村の集団検診で大きな病院に行け・・と言われたことから
筑波の大学病院にまで行ったりしましたが 半年以上病名は分かりませんでした。
38度から40度の熱がもうずーーーっと続き おかしい・・と言っていたら
「すぐ入院。何百万人に一人の難病です・・」と告げられました。

背骨から作られる血液機能はゼロ、血が足りなくて輸血を年中していました。
ただただ・・・輸血に頼り、母も弟もご近所の方にお願いして血を分けてもらわねばなりません。
私は父と同じA型、それでも2回ほどしか輸血できません

何も対策がなく 血の材料となる食事を取ることが父の役目。
病室を訪れると、6人部屋の皆さんはもちろん病人食。
父はてんこ盛りのとんかつやらレバーやらお野菜やら・・
「こんなに食べられないから 食べていってくれ」と父。

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/dc/f9/gwqtx445/folder/1484019/img_1484019_52247301_17?1195891120

父は最期まで意識ははっきりしていました。
「面倒かけてすまなかったな。ありがとうな」と母に言ったといいます。
集団検診から1年で亡くなった父。
「この病気は滅多にないので解剖させてくれ」
私は反対だったけど、私の意見は通らなかった。嫁に行ったものの意見はダメなんですって。
背骨は形だけだったと・・
全くのスカスカで 良くこれで生きていられた・・状態だったようです。

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/dc/f9/gwqtx445/folder/1484019/img_1484019_52247301_17?1195891120

開拓者としてずーーっと苦労してきた父は 内孫をひざの中に入れて笑っていました。
内孫の女の子は そんなじいちゃんが「大好き!!」だと言っていました。

もう父が亡くなって20年・・・月日は早いものです。
20年後の今だったら この病気も治せたんでしょうか?
もっと長生きできたでしょうか?
そうすれば 今も家庭があって 母も弟家族もあの場所で生活していたでしょう・・・
何もかも無くなってしまったけど、思い出は心の中にありますよ、お父さん。

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/dc/f9/gwqtx445/folder/1484019/img_1484019_52247301_21?1195891120