渡満道路の桜並木・・水戸市内原町1497-16
※ 渡満道路とは・・
満州【中国東北】に渡ること。昭和13年に出来た「満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所」での、農事などの訓練を終えた16~19歳の若者が満州での実習などに向かうために訓練所正門を出、常磐線内原駅まで行進した道路。 (内原郷土史義勇軍資料館HPからお借りしました)
おおよそ100本の染井吉野の並木です。
行ったときはもうとうに葉桜になっていましたが、並木を通る風が心地よかったです。
当時の桜は弱ったために、出身者の寄付で平成5年と7年に約70本を補植したそうです。
HPによりますと、満州に渡ってから大変悲惨な事にもなったようで・・
戦中戦後の話を実父から聞いています。
あまり話したがらなかった父ですが、父もまたここで訓練を受けた組で 満州に渡りました。父は長野県の出身ですが、長野県の若者も多くいたようです。
あちらでは主に、開拓事業。広大な土地の開墾など。重労働だったようです。
父は行って数年たったころ、「肺炎」になってしまって 結局戦力にならないと判断され、国に戻されたそうです。そしてすぐ終戦になり、満州に行った仲間たちは戦死したり、抑留されたようで、父はよく「帰ってきてしまった・・俺は残りたいといってもダメだった・・」と 仲間を思い後悔ばかりしていました・・
いまなら、父の後悔の念も分かるような気もします・・
まあ・・父が国に戻されなかったなら、私も生まれていなかったわけで。
が・・・戦争はこういった貴重な若者たちも犠牲にしたわけで、戦争は金輪際、いけません。
父も 満州に渡るとき、この道路を通ったのだろうか・・?
父が亡くなった今、確かめるすべはありません。桜並木を見ていて、ふと、父の顔を思い出しました・・
桜に見送られ、たくさんの若者が満州に行ったのですね。
※ 長男が送ってくれた写真・・
こちらに詳しく載っていますね。
やはり「桜花」は日本人の心の花であったようです。義勇軍の門章や帽賞にも桜の花をかたどったようです。
この文を読むにつけ、長野県からやって来た実父もこのようにして訓練所を出た事が改めて分かった次第です。
その当時の訓練生は 夢と希望を持って満州に出向いたのでしょう。
桜の咲く来年、満開の桜を見たいと思います。(#^.^#)
※ また、この近くに、「満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所之碑」が、訓練所跡地に立っている・・と長男から聞き、折を見て行ってきたいと思っています。
※ 以下に、詳しく載っています。
撮影日・・2022年05月14日