「死という最後の未来」 石原新太郎・曽野綾子 著
ー「死」について赤裸々に語るー 株式会社幻冬舎
2020年6月20日第一刷
キリストの信仰を生きる曽野綾子、法華経を哲学とする石原新太郎。
対極の死生観を持つ二人。
第一章 他人の死と自分の死
第二章 「死」をどう捉えるか
第三章 「老い」に希望はあるのか
曽野綾子さんは、「霊魂は不滅かなと思っています。この世に生き、たくさんの事を考え喜び悲しんできたことが死によって終わる・・パタリとその動きをやめてしまう事はないと思います」
一方、石原新太郎さんは、息を引き取ったら一瞬で魂もなくなる。瞬時にチリ芥になる。
この二人の根底にある考えは、やはり宗教の違いからくるのではと考えます。
曽野さん 「分からないものは分からないまま死を迎える、人間的でいい」
石原さん 「死というものが分からない。死んでも死にきれない。死の実態を無性に知りたい。死んで帰ってきた人はいないから、誰も知らない・・」と。
「他人の死と自分の死の違い」・・や、自分が「死」をどう捉えて向き合うか・・や、また、「老い」に希望はあるのか・・と言った齢を重ねた「いま」考えた事を、80を超えてお二人が語ったことが、対談形式で書かれています。
この「コロナ渦中」で、目にとまった一冊に興味を覚えて買い求めました。
お二人の人生観や、物事に対する考え方など、どれも「全く一緒」という事は、どうやらなさそうです。
しかし、対談は、静かにゆっくりと、時間を追って流れていく・・と言う気がします。
人間だれしも年は取るもの。いくら長生きの時代とはいえ、やはりふつう、80歳も越えれば、「老い」や「死」という言葉が頭に浮かぶものでしょう。お二人の「死生観」を興味深く拝見しました。
特に、第三章・「老い」に希望はあるのか・・・をじっくりと見てみました。
夫と過ごす最後の時間・・とか、介護の問題や、延命治療の事、この世に生きたあかしを残すべきか?・・誰もが死ぬというよくできた制度・生涯は単なる旅路に過ぎない・・などなど、お二人の考えが、よく分かります。
またそれらの話に共感できるものもたくさんあって嬉しいです。
自分でとても大切にしてきた「モノ」を、歳を重ねて手放さざるを得なくなった時の深い悲しみや、憤り。大切な仲間との永遠の別れ・・等も、やがてはやって来る、それが「老い」なんですね。
石原さんは「老いたらいろいろなものを捨てなくてはならない。「執着」ですよ。それを捨てる。そうなって、ぼろぼろに老いてしまう。だから、老いることに耐えなければ。老いを睨みつけてね」と。
しかし曽野さんは「老いは人間の一つの形だから」と。
「無気力になりたくない」と、石原さんが言う。
やはり、宗教観はあるのだろうか。
それとも、「男と女の違い」なのだろうか?
人間一人一人、「老い」や「死」について考え方は全く違いますね~~
この本で学んだことが、果たして私にできるか?合っているか?・・は、いまだ分かりません。しかし、少なくとも、「老い」や「死」を恐れないで生きていこうかな・・等と思ったのです。
終わりの解説最後に、曽野さんは
「人は現世で何事も十分に出逢ってから死んだ方がいい。楽しい出来事ばかりでもなく、気の合う人にだけ会えるわけでもないがそうした経過があってこそ人は深い人生を感じて最期を迎えられるだろう。」
と、綴っています。
いい本に出会ました。(#^.^#)